【重要文化財】長柄「旧毛馬閘門(こうもん)」

長柄橋南詰付近を淀川沿いに右折すると、
「眼鏡橋」が左手に見えてきます。⬇︎

春には桜が咲き、とても綺麗です。
私が行った時には花見客で賑わっていました。
階段を上がり奥に進むと看板が見えてきます
とりあえず「毛馬の残念石」という
名前が気になり、そちらの方向に
足を運びました。

すると目の前に巨大なオブジェ?が…
見てみると「淀川改修紀功碑(よどがわかいしゅうきこうひ)」と書かれています。

説明によると、
淀川の洪水は古代からたびたびくり返され、
そのため淀川改修工事が明治29年着手され、
明治42年完了。その記念に建設されたという。
⬆︎紀功碑の裏側。周囲には桜が咲いています。

そして紀功碑の近くに「毛馬の残念石」の
看板がありました。
…が、鳥の糞だらけでよく見えません。
残念石の看板が残念です。

説明によると
江戸時代に大坂城再建の際に伏見城の石垣の石を船で運んだが、その途中で船から落ちた石が、後の淀川改修工事の際に引き上げられたもの。ここまで来て大坂城の石垣になれなかった石だというので「残念石」というらしい。

説明を読んで、「よし!どれが残念石なんや〜」と気負って見たが…

「これが残念石でっせ!」とアピールするものはなく…
そこら辺にゴロゴロ置いてあるのが
「残念石」らしいです。
看板といい…展示のされ方といい…残念です

さらに紀功碑の近くにお地蔵さんを発見しました。
「毛馬北向地蔵」という。
自然石の前面に彫刻されたものが両サイドに安置され、真ん中に祀られているお地蔵さんは、角の取れた自然石そのものです。

説明によると
一体は、明治の終わりごろに旧毛馬洗堰新設工事のとき、浚渫により、大川から発見された。
一体は、大正9年頃、内務省機械工作所が旧光龍寺(十三付近といわれている)の整地のときに掘り出された。
一体は、昭和6年頃、土佐堀の旧内務省大阪土木出張所(現建設省近畿地方建設局)敷地内にあったものを移転し、この地に安置された。

さらに、
このお地蔵さんは、そのむかし、聖徳太子が仏教を広めるために大阪市天王寺区に今もその名が残る六万体町で六万体のお地蔵さんをつくらせ、全国にそれを安置させたそのうちの三体であり、歴史的にも古く、淀川を洪水から守っていただくなど、霊験新たかなお地蔵さんで、遠くからの参拝者も多く、毎年8月23日の地蔵盆には御詠歌で供養している。

らしいです。

さて長くなりましたが、
いよいよ旧毛馬閘門の登場です⬇︎
国の重要文化財に指定されています。
※「淀川改修紀功碑」も附(つけたり)指定

まず閘門とは?
閘門=こうもん。運河などで高低の差のある水面で船を昇降させたり、水量を調節したりする装置のある水門の事。

旧第一閘門は、
内務省土木監督署の技師沖野忠雄の指導による淀川治水計画の一環として設計施行されたもので、両岸がレンガ造りとなっており、水路前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めした。昭和51年1月まで使用され、その役割は現在の毛馬閘門が引き継いでいます。治水関係は当時の最先端、石とコンクリートを使用した最先端だったらしいです。

旧毛馬閘門から淀川の方に行くと、
上記で紹介した沖野忠雄像があります。⬇︎
沖野忠雄は明治期の工学博士であり、日本の治水工事の始祖と呼ばれる土木技術者。
沖野氏をしたう後輩が、1935(昭和10) 年にゆかりのこの地に建てたが、戦争のため失われてしまった。
 その後、1979(昭和54)年によみがえらせ、「沖野忠雄の名を永遠であれとする」 としたもの とのことです。


ちなみに沖野忠男のお墓は、
京都の浄土宗大本山金戒光明寺にあるという

是非今度そちらにも行きたいと思います。
長文でしたが、最後まで読んで頂きましてありがとうございました。m(._.)m

●旧毛馬閘門●
〒531-0063 大阪市北区長柄東3-3-25付近

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